ある時はエフェクターを偏愛するライター、またある時はフォトグラファー、そしてまたある時はバンドとともに世界を飛び回るギターテック、細川雄一郎。今回、日本のインストゥルメンタル・ロックバンド、MONOのギターテックとして北米〜南米ツアーに同行した筆者が、知られざる現地ライブハウスの様子や海外ツアーの実態を日記形式で綴ってくれました。ロサンゼルスからメキシコシティまで、全13回にわたる短期集中スペシャル連載スタート!
今日のヴェニュー “Fillmore”
[6月13日 13:55]
起床…搬入5分前じゃん。バスは既に会場の脇に止められており、そのバスの中には僕以外誰もいない。まさに今すぐにでも搬入が始まりそうな雰囲気の中、2分で身支度を整えてにバスの外に出ると、待ち構えてたかのように立っていたマネージャーのリボーがニヤニヤしながら「Roading?(搬入する?)」と訪ねてきた。もちろん「Yeah!!(あたぼうよ!!)」と答えるしかない。寝起き直後から数百キロの機材類を運ぶことを考えると、いや、というか脳はまだ熟睡中なので考えられないが、珍しく思いもよらぬ朗報をリボーがもたらした。「5 venue guys are coming. So easy today.(ヴェニューのスタッフが5人も手伝いに来る。今日は楽だろう。)」
[14:40]
やけにパワフルなヴェニューガイズの助けもあり、ステージのセッティングは即座に完了。その間、数百キロの機材類はステージまで巨大なフォークリフトというか、鉄骨と鉄板だけで作られた揺れまくるエレベーターで運び届けられ、各スタッフが慣れた手つきでステージを作っていった。僕はそれを手伝いつつ、いつものようにTakaさんのギターの弦交換を済ませ、各楽器の配線、セッティングを行い、サウンドチェックが始まる。
[16:15]
1日の始まりがあまりにも唐突だったため、考える暇もなかったが、今日のヴェニューは伝説的な場所だった。ヴェニューの名前は「Fillmore」。この名前に恐れ入る音楽ファンはきっと多いと思う。Jimi Hendrix、Greatful Dead、King Crimson、Miles Davis、数多くの伝説的バンドがステージに立ち、ライブ録音に使われた「Fillmore East」と同じく、伝説のプロモーターBill Grahamによって作られたヴェニューだ。元々は1912年に建てられたダンスホールで、1954年からヴェニューとして使われているらしい。ヴェニューの中を歩いてみると、壁のいたるところにFillmoreでライブを行ったレジェンドたちの写真、ライブのフライヤーが飾られていた。
1996年5月27日にFillmoreで撮影された、若き日のRadiohead。
[17:00]
食事の時間。通常、アメリカツアーの多くの場所では夕飯時になると幾ばくかの現金が手渡され、その現金を手に好きなレストランに入る。みんなが「Buy out(好きなもの買って食え)」と呼んでいる制度だ。しかし、このFillmoreではビュッフェ形式のディナーが用意されており、サラダ、スープ、メインディッシュ、そのどれもが手作りで本当に美味い。ヨーロッパではヴェニューに食事が用意されていることが殆どだったが、アメリカツアーではこういったことは少ない。この食事がちょうど終わった頃、LOWが会場に着いたようだった。
[20:30]
LOWの本番は15分を押して始まった。15分前まで少なからず空白が見えていたフロアは満員。このための15分押しだったのかもしれない。今日も昨日と変わらず、本当に音が良い。特にスティーブが弾くベースの音色が絶妙で、アンサンブルの中でうまく立ち回っている。そのLOWにMONOが混じり、今日も1曲だけ演奏を共にする。僕はこのセッションのためにLOWが演奏を始まる直前にステージに上がり、MONOが使う楽器類をスタンバイしておく。今日集まったファンからの期待は大きく、ステージ上のアンプの電源を入れるだけでも軽く客席が湧いた。嬉しいような、恥ずかしいような、何とも言えない気分。
[21:45]
LOWの演奏、そしてステージの転換が問題なく終わり、MONOの演奏が始まる。1曲目の「Ashes In The Snow」から大きな歓声と拍手が巻き起こる。MONOは2曲目までは問題なく演奏を続けたが、3曲目の冒頭でYodaさんからステージモニターへの注文が入る。アイコンタクトとボディランゲージでTakaさんのギターの音量を上げてほしいことを伝えているが、ミキサー卓を操作しているこのヴェニューのサウンドガイ、マイクは理解できていない。同じ日本人であれば何となく解るようなことだが、海外では今回のようにボディランゲージがうまく伝わらないことが多くある。そういった場合は僕がその旨をサウンドガイの耳へ直接代弁し、ミキサーを操作してもらう。このようなことが起こる可能性があるので、僕は3曲目が終わるまではメンバー全員から見える位置に待機しているが、その後、4曲目以降にステージモニターへの注文が入ることはほとんどない。
[22:55]
MONOのライブが無事に終わった。そして、その直後には毎回恒例とも言えるある2つの出来事が必ず起こる。1つは、ステージ最前に集まったファンによるセットリスト(曲順表)の争奪戦だ。争奪戦といってもそれは常に平和的なもので、限られた枚数のセットリストを入手できた幸運なファンの多くは、それを独り占めすることなく、周りにいるファンたちとその日の曲目を共有する。非常に和ましい光景だ。
残る一つは、TakaさんとYodaさんが使っているエフェクターボードの大撮影会だ。Takaさん、Yodaさんが使う要塞のような巨大エフェクターボードは海外でも大人気で、そのケースの蓋を開けるだけで歓声が上がることもある。MONOファン(そして時にはヴェニューのスタッフも混じる)はそのエフェクターボードを前にし、スマートフォンやデジタルカメラで写真を撮りまくる。ボートを背に自撮りしている人すらもいる。観光名所か。
で、そのTakaさんのエフェクターボードを作ったのが僕だった。
今から2年前、僕は都内にある大手楽器店に勤務していた。エフェクターを専門に扱う店員としてすでに7年が経っており、自分でもエフェクターの改造、修理、自作が行えるようになっていたほか、「Guitar Magazine」、「The EFFECTOR BOOK」、「YOUNG GUITAR」などの著名な楽器の専門誌、ムック本などでエフェクターに関する記事の執筆、連載も担当していた。そんな僕が働く店にTakaさんが唐突にお客さんとして現れた日があった。当時、TakaさんはMONOで使う新しいエフェクター(具体的にはオーバードライブ、ブースターなど)を探していたほか、それらを包括し、世界各国で使用できるエフェクターシステムの構築を望んでいた。僕はTakaさんに会ったその時よりもずっと前からMONOの大ファンで、東京の公演は皆勤賞を決めていた。Takaさんのシステムを作る依頼はもちろん引き受け、その日以来、僕はTakaさんのエフェクターボードの構築、修理、改造などを常に担当している。その後、同店で誰もが知るようなプレイヤーが使うエフェクターボードを作ることも何度かあったが、今は約10年続けた楽器屋店員を辞め、楽器専門誌のライター業は続けながらも、去年のヨーロッパツアーからMONOのギターテックとして世界を回っている。明日も、明後日も。
※vol.3に続く
Photographs by Yuichiro Hosokawa
MONO Official Website